全盲の医学生:既成概念の克服
      コンスタンス・ホールデン

BLIND MEDICAL STUDENT: OVERCOMING PRECONCEPTIONS

     Constance HOLDEN

Science 1911241-1244March 1976


 David Hartman は医師にならなくても立派にやっていけると思われるが、周囲の状況、
人々の協力あるいは彼自身の性格がうまく結合した結果、常に目立った存在になろうとし
ている。
 Hartman26歳、は100年間このかた、米国の医学校に入学を許された最初の盲人であ
る。彼はフィラデルフィヤの Temple 大学医学部の上級学生でこの5月に卒業する。彼はご
く僅かな変更はあるが、目の見える同級生に要求されるのと同じコースを全部終了した。
彼は精神科医となってハンディキャップを持った人の身体的や心理的なリハビリテーショ
ンの領域で活躍したいと考えている。
 医師になってから盲になった人は珍しくない。 Hartman が調べた所、盲になってからも
引続き医学の訓練を受けた人も何人かあることがわかった。しかし、目が見えなくなってか
ら医学の訓練を一から受けるというのはそれと全く事情が異なる。このような学生の入学
に少しでも考慮を払う医科大学はほとんどないだろう。今まで知られている例としては
1878年に Robert H. Babcock がシカゴの医学校に入学したという記録がある。彼は手さぐ
りで解剖を学び、心臓や肺の病気に関する書物を著わす所までいった。
 Hartman の成功例は盲人の能力の限界についての既成の概念を打破するのに役立ってい
るが、それでは今後盲人がどんどんと医科大学に入れるようになるかと云うと決してそう
ではない。 Temple 医大の副医学部長で入学を担当している。 M. Prince Brigham は、 
David は全く例外的な人物であり、世間のほとんど大多数の盲人は医科大学というような
所は極端なまでに失望させる場所であると考えており、そんな所へ入学しようと考えたり
はしないものであると云っている。 Hartman はエゴの力、すなわち落胆させられるような
ことに直面しても、それに耐えて自己をみつめる力を有している。 Brigham によると、そ
れは彼が非常に成熟した人柄であるためである。
 多くの人は、 Hartman によると、彼の職業が医師であると告げられると手術室に死体が
ころがっているような光景を思い浮べる。それは人々が、えてして、盲者がちゃんとやって
いけるためには手品師かスーパーマンのような能力を持つ必要があると考えていることと
関係している。しかし彼自身の評価によっても Hartman は決して天才ではない。しかし、よ
く組織化され、現実的で、意志が強く、また知性的である。彼は親切で、思いやりのある人
柄であり、医師の雰囲気をもち、足が地についた自信にみちた人柄であるという印象を人
に与える。
 彼は立派な哲学を持っているが、その肝腎な点は、「誰でも何かの仕方で欠陥を持ってい
ると」いうことである。普通、そのような欠陥は目立たないことが多いが、そうでない場合
もある。精神科を受診する人と気楽に話し合えないような人は沢山ある。
 彼がこれまでやって来られたのはチームの努力のたまものである。彼の両親など家族は
心をきめて彼が一本立ちし、未来への展望が開けるようにしてやったのであり、また大学
での先生方も彼の希望が達せられるよう全面的に協力した。現在彼は夫人の Sheryl とチ
ームを組んでいる。結婚は1973年で、夫人は教育心理学の学位をとって教育者としての道
を歩みたいと望んでいる。
 Hartman はペンシルバニヤ州の Havertown で生れたが、先天的な角膜の変形を併って
いた。8歳の時に緑内障と網膜剥離がおこり全盲となった。彼は5年間盲学校に通い、それ
から Haverford 高校、さらに Gettysburg 大学へと進んだ。その時には医学に進む決心が
すでに固まっていたので、大学では生物学科に入った。彼は視覚の代りに触覚を使って実習
も完了し、もうちょっとで平均Aという成績で卒業した。『Gettysburgで彼は不可能なよ
うなことをやりとげた』とBrigham氏も云っている。そんなことでTemple大学がその続き
をやらせてみるのもそんなに無茶なことと思えなくなった。
 その考えが勝ちを占めたのは結局Temple大学だけであった。Hartmanは徹底して計画を
立てる性質であったから、Gettysburgでの教養課程の間に医科大学に探りを入れ始めてい
た。専門課程に進んでから10ばかりの医大に志願し、 TemplePennsylvania 医大、
HarvardYale の各大学で面接を受けた。他の大学は彼を受入れることは実際上到底無理
であるとして断わり、それが彼を傷付けた。つまり彼は成績や今までの実績から少なくとも
面接ぐらいはしてもらえる資格は充分あるから、少しは親切心を示してくれてもいいはず
だと考えた。彼はYale大学に呼ばれ医師達とインフォーマルな話し合いをしたが、彼によ
ると医師達は皆彼の受入れに懐疑的であったと云う。それが終った時彼は奴らを殺してや
ろうと思う位の気分であった。面接を行った他の人々も彼を問いつめ、とくに彼が組織学
(組織の顕微鏡による学習)や解剖学をどのようにして修得しようと考えているかに重点を
おいた。 Hartman のそれらに対する答は出来上っていた。すなわち、彼は解剖学を学習する
能力は充分にあり、また結局のところ外科医になるつもりはないと云うものである。組織学
に関してはその領域について概念的な把握が出来ていれば彼の目的には充分だと対応した。
医学部長 Roger Sevey によると Temple 大学では他の大学より一歩進めて、 Hartman 
志願の件を執行部(政策決定クループ)にはかり、学部がこの若人にとことんまで懸り合う
ことを決定した。それから以後、大学当局では彼を出来る限り既存の規準で取扱うようにし、
従って彼から将来精神科以外はやらないと云った約束を取付けたりしなかった。
 Hartman は銀行家を父親にもち、学資など全部自弁でやっていた。しかし、 Temple 大学
は他の学生と同様に彼も奨学資金などに応募する資格があるとしていた。彼は試験的とい
うことで180定員に対し181番として入学を許可された。それは彼が学業を終えて卒業する
チャンスがもっと多い人の場所を奪っているという非難を避けるためであった。それ以外
には何ら特別な処置は取られず、 Temple 大学当局は何から何まで耳を通して行う方針を
取った。正規のカリキュラムで要求されることは何一つ免除されなかった。もっとも]線像
の解読といったことは別であった。
 最初の2年間は大変な苦労で、毎夜盗汗をかくほどであったが、それは駆け出しの医学
生には普通のことである。実習室での仕事にはいろいろな便法の工夫がせまられ、また同級
生や教授からの助けが実際必要であった。粗大解剖について、 Hartman は“ほとんどすべ
て触わることが出来た”と云っている。彼はクラスメートがはめているゴム手袋をせずに行
なったから、ホルマリンで指先がしびれてしまわない内に手早く触わりまわることが必要
であった。組織学は難問で、この領域での彼の学習は概念的であった。しかし、彼は三次限
模型や透明紙の上に、先生方がボールペンや鈍針で浮き出させてくれた略図の助けを借り
ていろいろの神経や細胞組織などの形を学んだ。実習室での勉学でも彼は概して同級生よ
りおくれるということはなかった。ある時、生理学の実習室で気管切開を加えられた麻酔犬
の頸動脉の拍動をふれてみるように云われた。その課程をパスするだけならそれだけで充
分であった。彼はそれに止らず、自分で気管切開をやり、もっとくわしく勉強した。
 以前は眼が見えていたから、 Hartman はいろいろのものの形を頭の中で構成することが
出来、それは生れた時からの盲人よりも非常に有利であった。問題は時間のかかることであ
った。1年生の時は何とかやっていけた。しかし2年生は大量の読書が要求されたから信じ
られない位であった。 Hartman が採用していた方法は講義を全部テープし、それを家で再
生してその要約を吹き込み、ファイルするというものであった。1時間の講義内容を再生し
要約するのに2時間かかった。困り果てて Hartman Brigham の助けをかり、講義を全部
テープする代りにその要点をささやき声で録音する方法を工夫した。また彼のノートを点
字に変換するように切替えた。その方が早く必要な場所がわかるからである。指定された読
書については一つはテープにとられた書物に頼った。「盲人のためのテープ吹きこみ
(Recordings for the Blind)」のサービスは彼のために親切にも解剖と外科に関する2000
頁の教科書をテープに吹き込んでくれた。また同級生は毎週何時間もつぶして彼のために
読み、図の説明をしてくれ、時にはお礼も受取らなかった。
 3年生になって Hartman は新な困難に直面した。その時期には6週間ずつ臨床各科すな
わち精神科、産科婦人科(そこで彼はお産の助手をつとめた)、小児科(そこでは彼は子供を
落さないかと心配した)、一般内科、外科などをまわった。外科では毎週23時間手術の助
手をした以外、大概の時間は術前、術後の看護に費やした。第4学年になって卒業出来そう
だという自信がついて来たが、この年は彼は救急外来を3週間やった以外は自分の希望で
臨床のローテーションを続けた。救急外来でも格別の問題はなかった。と云うのは患者は大
部分内科で外科ではなかったからである。 Hartman は患者の病歴をとり、診察をすること
に充分自信が持てた。彼が助けを必要としたのは耳、眼、口の視診、それに皮膚発疹であっ
たが、後者は患者が云うのを聞けばわかるようなものである。彼は特別な血圧計を持ってい
るがそれを盗まれたこともある。その血圧計は盲人用の時計(蓋をあけて針の位置を触れる
ようになっているもの)と同じ仕組で血圧が読みとれるものである。 Hartman は大概の診
断は充分自信をもってあたれると思っているが、それは病気にさいして盲であるために気
付かないような微妙な徴侯が一つだけしか現われないといったことはまずないからである。
彼も『意識を失った患者は問題だ』と認めている。と云うのはその様患者では調べることが
少なく、また瞳孔の視診が重要であるからである。
 Hartman は臨床学科教官が持っていた疑念を取り去るために努めねばならなかった。 
Sevey によると『臨床の何人かの先生は彼が盲目であることだけを見て、彼の人柄を知ら
ない。しかし、大部分の人は初めは懐疑的であっても後には弁護者になった』という。 
Hartman を教えた内科医 Beryl Lawan (この人は事故で両足が麻痺した後に Temple 医大
で医学教育を受けた)によると、一、二の例外を除き患者の側から Hartman が問題にされ
ることはなかった。むしろ、患者は彼がしんぼう強く、同情心を持っていると云っている。
多くの人は彼が盲目であるといっても信じない位である。人の前に出る時には900ドルし
た義眼をはめる。それによって患者をまっすぐに見つめても不自然でない。しかしすべてが
優美で明知であるわけではない。 Hartman によると彼はある患者がひどい抑うつ状態にあ
るのに同情し、その人を元気づけるために何か出来ることがないかと尋ねたことがあると
いう。患者は本当に困っているのだと云った。 Hartman はこの場合も難なく処理出来たが、
この出来事は障著者、とくに盲や聾の人がもっている最大の関心時が『どのようにしてや
っていけるか?』ということである事を示している。誰でもが当然のことと考えている視覚
による手懸りを持たない場合、その人は利用出来るあらゆる対象からのフィードバックを
ものすごく大切にする。患者に接する時でも彼が患者に役立つことをしていないのではな
いかとか、或は自分だけが患者との接触から利益を得ているのではないかと云うような不
愉快な心配にとりつかれ勝である。
 Hartman は試験は口答で受け、答えは先生に書きとってもらっているが、彼は自分がど
のように評価されているかということをいつも気にしている。身障者にとっては点数がも
のすごく大切なものとしてとられている。それは彼の才能と関係して、また同列者の成績と
の関係において彼自身がどの程度に査定されているかということが点数に反映されると考
えられるからである。そのことは点数を軽蔑しているような学生には到底想像も出来ない。
『自分が適した場所はどこかということを見付けねばならない』。才能という点にあまりに
も重点を置けば点数制は実際上無意味となるが、また同列者との比較を主にしすぎること
も非現実的であり公正でない。
 Hartman は夫人と一緒にフィラデルフィアの小さいアパートに住んでいる。彼は家事を
手伝い、勉学の傍ら友達と会ったり、バスケットボールやアイスホッケーのゲームに一緒
に出掛ける。夫人は学校へ自動車で行き、彼はバスを利用し、折畳式の白杖をついて動きま
わっている。 Sheri は声を出して彼のため、また2人のために本を読む。今は Cancer World 
を読んでいる所である。 Hartman は小さな書斉で勉強するが、そこには20巻の点字の医学
辞典や、点字で印をつけた沢山のテープがある。彼は点字タイプライターと Opticon を持
っている。 Opticon はカセットテープレコーダ位の大きさの新しく開発された高価な装置
で、印刷された文字を光センサーで感受し各文字の形に小形のブラシを持ち上げる。 
Hartman によると Opticon は動作が遅いのでそれ程役に立たないが、心電図の読取りなど
に応用すると便利じゃないかといっている。
 長年にわたって猛列に勉強し、計画し、また医師になろうと考えたりしたのは本当は馬
鹿なことではなかったかと心配したあげくであるが、未来はかなり明るいようになって来
た。
 Hartman は自分の成績を大体平均位であると考えているが、実際はクラスでは上から
20%に入っている。今まで長年駄目であったのに、ここになって盲人の医大への入学が許可
された理由について彼は、機会均等ということに対する社会の関心が高まったことと、医
学教育で割合早期に専門化が行なわれるように変化がおこったためであると云っている。
あらゆる事柄に対し広い知識を持つということは最早要求されないようになったまた全ア
メリカ人がすべて完全な健康者でなくてもよいという考えも広まっている。 Temple 大学
の寄与も大きい。この大学は医学教育を勤労者や普通はそれを受けられないような人々に
授けることを目的として今世紀の初めにつくられた。 Sevey によると入学委員会は大学内
でも最も活発な委員会であり、また Beryl Lawn も委員会のメンバーは信条としてどんな
人でも考慮に入れるよう特別に努力していると云っている。 Sheri Hartman も『Temple 
学が採用してくれなかったら、彼は心理学を専攻したもう1人の盲人というだけで終った
だろう』といっている。
 Hartman は計画家で、また何事にも一歩引き下がって考える性質であるが、これから5
6年間にわたる予定も出来ている。彼はレジデントを2つ、1つはリハビリテーション医
学、もう1つは精神科でやろうとしている。彼の計画ではリハビリを1年やり、それから精
神科を23年やり、またリハビリにもどるという、彼のアイディアは精神科でリハビリを
やることは出来ないが、リハビリでは精神科で習った事を応用出来るということにある。
今のところ彼は精神科のことはあまり知っていないが、それは身体的な医学を充分修得出
来るように精神科の勉強を避けていたからである。彼の立てている仮説によると、精神科医
に接する時は神経質になる患者も彼には気をゆるすだろうと云うが、それは一目見て大丈
夫だとわかるからである。
 Hartman は病院で働く自分を心にえがいているが、同時に家族治療(とくに障碍者には重
要だと彼は云っている)や貧しい人に対する医療サービスにも関心がある。
 彼の仕事には非障碍者の教育も含まれることになろう。非障碍者は障碍者の能力の限界
について間違った概念を持っており、障碍者に接する時にうまくいかないことが多い。 
Hartman は彼が希望すれば内科専門医にはきっとなれると思っているが、将来は盲人が外
科に進めるような道も開かれるのではないかと考えている。『誰も盲人や障碍者の能力の限
界がどこにあるか、現在誰にも分っていない』と彼はいっている、『目明きの人には私に何
が出来、何が出来ないかわかる筈がない』。

 (東京医科歯科大学医学部生理学教室 古河太郎 訳)